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アメリカ本土における日系史はサンフランシスコからはじまった。サンフランシスコは19世紀半ば、ゴールドラッシュとそれに続く大陸横断鉄道の完成で、世界屈指の貿易港に発展を遂げていた。1906年の大地震で市のほとんどが壊滅した時もあったが、目覚ましい早さで復興を果たし、太平洋沿岸商業の玄関口として栄えていく。

 

 

日本人初の移民「若松コロニー」

 日本からアメリカ本土への最初の移民団は1869年、明治維新で国を追われた会津若松藩士らだった。「若松コロニー」と呼ばれる22人の移民団は、サンフランシスコに降り立ち、サクラメントに近いゴールドヒルで茶と絹を栽培する農場の建設と若松領再建の夢を見た。彼ら以前にも、遭難して救助されたままアメリカに残った中浜万次郎(ジョン・万次郎)や、航海中に船が難破しアメリカの商船に救助された浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)などアメリカに渡った日本人はいるが、本格的な入植を目的としてアメリカに渡った日本人は「若松コロニー」が初となる。移民団がアメリカに渡る前年の1868年に戊辰戦争が勃発し、旧幕府勢力の中心だった会津藩は新政府軍と戦い敗北した。この戦いに敗れた白虎隊の悲劇は今も語り継がれている。その翌年、会津若松藩士や大工・農家とその家族などで構成された移民団は、会津藩主の松平容保の支援のもと、当時会津藩と交流していた商人ジョン・ヘンリー・シュネルに導かれ、新天地開拓に希望を託してゴールドラッシュに沸く同地へ降り立った。

 しかし希望を胸に新天地開拓に挑んだ移民団の計画は2年足らずで破綻する。移民団が開拓を進めたゴールドヒルは、1849年にジェームズ・マーシャルがアメリカン川で砂金を発見しゴールドラッシュの発端となった地からほど近い場所。茶と絹の栽培に適しているとされていた同地だが、近郊では次々に金の採掘が行われ、採掘現場から流れ出た汚染物質により、栽培していた桑や茶の木が汚染されて枯れ始め、次第に全滅してしまった。こうして若松コロニーは新天地開拓の夢敗れ崩壊するが、日系史上に貴重な足跡を残すこととなる。シュネルの家族とともに子守りとしてアメリカに渡った17歳の「おけい」の話は、若松コロニー崩壊によりシュネルが去った後も当地に取り残され、熱病により19歳でその短い生涯を閉じた少女の話として、日系社会で語られている。

 

日系コミュニティの始まり

 1870年、全米に先駆けてサンフランシスコ日本領事館が設立される。1873年に同領事館副領事が報告したところによると、当時の在米邦人数は男性68人、女性8人、子ども4人。それはまだ、コミュニティのはじまりとも言えぬ黎明期で、働き盛りの男性労働者が大半を占めていた。初期移民は後続する渡米者の便宜をはかるため、就職口の斡旋やネットワークの構築に努めた。最初は白人家庭や白人経営の商店などで下働きをしていたが、やがて日本人経営の店も開業しはじめる。

 

 

サンフランシスコ日本町の形成

 1906年の大地震まで、サンフランシスコの日本町は現在のダウンタウンにあたるデュポン通り(現グラント通り)を中心に発展していた。当時のデュポン通りは飲食店や遊技場が立ち並ぶ歓楽街だったが、大地震のダメージにより多くの住民が移動、日系商店はその後3つの地域に分散した。サウス・オブ・マーケットに近いサウスパーク地区、既存のダウンタウン地区、そして一番大きな発展を見せたのが現在の日本町が位置するフィルモア地区であった。1933年にベイブリッジの建設が着工すると、サウスパーク地区に住む日本人のほとんどがフィルモア地区に移り住んだ。地域は発展し、ポスト通りを中心に日系コミュニティとしてゆるぎない基盤が築かれつつあった。親が子を養い、祖国の文化と教養が受け継がれる場所。それは、同時に家族を守る砦でもあった。日系コミュニティは排日運動の激しい困難な時代に目覚ましい発展の時期を見い出す。しかし、1941年に日本軍が真珠湾を攻撃し、コミュニティのけんいん役を務めた一世達が次々と逮捕される。彼らは家族と引き離され、司法省が管理する収容所でスパイ容疑の取り調べを受けた。翌42年の3月、大統領令第9066号により、日系人の強制収容が開始。西海岸に住む日系人約12万人(うち市民権を持つ二世が3分の2)は限られた時間内に家財道具を処分し、1人2つまでに制限されたスーツケースを手に全米の砂漠地帯に建設された収容所に送られた。家主のいない戦中の日本町は、南から移動してきた黒人労働者たちの住まいとなった。終戦後、ある者は新天地を求めて排斥の影が薄い東海岸へ、ある者はなつかしい日本町へと帰還した。日系コミュニティはあらゆる困難の果て、徐々に再興を図っていく。やがて、成人した二世、三世らの功労でマイノリティ社会としての確固たる地位を築いた。

 

サンノゼ日本町

 サンフランシスコ日本町と同じく、サンノゼの日本町も全米に現存する日本町の一つだ。もともとはヘインレイン・チャイナタウンというエリアがあり、日本人が馴染みやすかったことから徐々に移民が増えていったという。その後、日本からの集団移民も手伝い、1880、90年代にかけて多くの日本人が移ってきた。この頃の移民人口のほとんどは農業に従事する独身男性だった。20世紀初頭までには日本人の人口は数百人に達し、日本人経営の店も増加、日本町も徐々に広がっていったという。その後、サンフランシスコ日本町と同様に戦時の厳しい時期が訪れるが、戦後は日系人の再定住に伴って再び日本町が姿を表した。1947年までには、100の家族と40のビジネスがこのエリアで立ち上がっていたという。再活性を促す都市計画の影響もあり、施設数はさらに増加。小売店舗、特に日本食レストランが多く立ち上がり、活気ある町へと成長した。

 

アメリカに3カ所となった日本町

 現在、アメリカに残る「日本町」は、サンフランシスコ日本町、サンノゼ日本町、ロサンゼルス・リトル東京の3カ所となった。1960年代には、サンフランシスコ日本町は再開発事

業の一環で、古い建物が取り壊されるなどし、多くの商店や住民が日本町からの移動を余儀なくされるという事態に。1968年、7年の歳月をかけた日本貿易センター(Japan Trade Center)が完成し、センター中央には、日米親善のシンボルとして日本からサンフランシスコ市に平和の塔(五重塔)が贈られた。今年で52回目を迎える桜祭りがスタートしたのもこの時期になる。その後、日本のバブル崩壊を受け、多くの企業や商店が撤退を余儀なくされる中、2006年には、同センターの大部分を所有していた近鉄グループも撤退を決断。アメリカ企業である3Dインベストメント社が買収するも、金融崩壊による景気低迷を理由に改築延期を発表するなど、混沌とした状況が続いた。サンノゼ日本町でも、2000年代に入ってからカリフォルニアの日本町保存プロジェクトとして3つの日本町に予算がついたことで、記念碑やシンボルが建てられた。カリフォルニアの3つの日本町は、いまも日本町を将来にわたって長く保存すべく、行政への働きかけや、地域ぐるみで都市計画の実施等に取り組んでいる。

 

日本文化が受け継がれる日本町

 いまもサンフランシスコ日本町で戦前と同じビジネスを営んでいるのは、「桑港ハードウエア」、「勉強堂」などの数店舗。サンノゼ日本町では、「Santo Market」や「集栄堂」が創業60年を超える伝統的な店舗だ。いずれも前世代の日系人の意思を受け継ぎ、代々家業を守ってきたコミュニティの礎的存在。私たちは、幾多の困難を乗り越え、強固な開拓精神でコミュニティを築いた日系人達の恩恵を受け、自由気ままにアメリカ生活を楽しむことができる。日本文化を表現し、象徴として今も愛されている日本町は、日本の空気と人々が集う生活の場所としての重要な役割を果たし続けている。

 

日系史150年の歴史を祝うイベント

 2019年はアメリカ本土への最初の移民若松コロニーが入植して150周年となる。それを記念したイベント「WakamatsuFest150」がエルドラド郡の若松ファームで6月に開催される。また、先駆者である日本人を讃え、世界の日系人が交流するイベント「コパニ(COPANI:Convention of Pan American Nikkei)」の第20回目が、今年9月にサンフランシスコで開催される。北米・南米大陸の日系人が集う国際的な非営利団体パンアメリカン日系協会が2年に1度行うイベントで、アメリカ合衆国での開催は18年ぶりとなり、サンフランシスコはロサンゼルス、ニューヨークに続く全米で3番目の都市となる。

 

日系企業の進出ラッシュ続く

 また近年はベイエリアに進出する日系企業も多く「リクルートホールディングス」や「トヨタ自動車」がシリコンバレーにAI研究所を持つほか、サンマテオにアメリカ本社を置く「楽天」も昨年技術研究所を開設した。「TOTO」もサンフランシスコにショールームを擁する。小売では「ユニクロ」や「無印良品」、眼鏡チェーン「JINS」などが続々と進出。飲食業界でも、定食の「やよい軒」、回転寿司の「くら寿司」、「一風堂」に続き「丸亀製麺」がベイエリアに出店。「ラーメン凪(なぎ)」もシリコンバレーで開店するなど、今後も日系企業の進出が期待される。